亡くなった人を「かわいそう」と思いすぎない理由
──悲しみから祈りへ、そして魂への信頼へ
人が亡くなったとき、私たちは反射的に「かわいそう」と感じます。
それは人として自然な感情です。
しかし、死生学やグリーフケア(悲嘆心理学)の観点から見ると、
その「かわいそう」という思いが、
時に“相手の魂をこの世に縛りつけてしまう”ことがあると言われています。
■「かわいそう」は、現世の価値観に縛られた視点
心理学者のロバート・ニーメイヤー博士(米・ポートランド州立大学)は、
悲嘆を「意味の再構築(meaning reconstruction)」と定義しました。
つまり、死とは「失った人を現世的な枠組みから解放し、
新しい意味を見出すプロセス」なのです。
「かわいそう」と思うとき、私たちは無意識に、
“この世での苦しみや悲しみ”を基準にしています。
しかし、宗教学や臨死体験研究(例:レイモンド・ムーディ博士『Life After Life』)によれば、
死後の世界を体験した人々の多くが共通して語るのは、
「光に包まれた安らぎ」「無条件の愛」「時間や肉体の苦痛からの解放」です。
そう考えると、亡くなった人を“かわいそう”と思い続けることは、
実は私たち自身の「この世の価値観」に縛られた視点であり、
その魂が向こうで安らかに過ごしているという可能性を閉ざしてしまうのです。
■御冥福とは、「暗闇の道を幸福に歩む」こと
「御冥福(ごめいふく)」という言葉の語源を辿ると、
“冥(くらい)=見えない世界”
“福(さいわい)=幸福・安らぎ”を意味します。
つまり御冥福を祈るとは、
「見えない世界へ旅立った魂が、幸せに進んでいけますように」という願いです。
これは、仏教の“浄土往生”にも通じます。
阿弥陀仏の浄土(西方極楽)は「苦しみのない世界」であり、
キリスト教で言えば「天の国」、スピリチュアルな文脈では「光の次元」と表現されます。
つまり、死を“終わり”ではなく、“旅の続き”と見る。
その視点に立つことで、「かわいそう」よりも「ありがとう」「よく頑張ったね」と、
心から送り出せるようになるのです。
■悲しみを無理に消さなくていい
心理学的には、悲しみを“押し殺す”のではなく、
“静かに整える”ことが大切だとされています。
スタンフォード大学のグリーフケア研究によれば、
喪失体験後の人間の心は「否認 → 怒り → 抑うつ → 受容」という段階を経て、
新しい意味を再構築していきます。
「かわいそう」という感情も、初期段階では自然なプロセスです。
しかしそのまま長く留まってしまうと、
亡くなった人を“永遠の被害者”として見続けてしまうことになります。
本当に魂を想うなら、
「もう苦しみは終わったんだ」
「今は自由に、光の中で笑っているんだ」
──そう信じることが、愛の形です。
■もし生き返らせようとしても、こう言うかもしれない
仮に、奇跡的にその魂を呼び戻そうとしても、
もしかしたらこう言われるかもしれません。
「いや、あっちはすごく楽しいから、もう戻りたくない」
それは、魂が本来の姿に戻ったということ。
人間という“衣”を脱ぎ捨て、光の世界でのびのびと生きているのです。
そう思えば、少し肩の力が抜けませんか?
■祈りとは「魂の自由を祝福すること」
宗教学者の山折哲雄氏はこう語ります。
「祈りとは、死者をこの世に引き戻すことではなく、
あの世への旅を静かに見送ることだ。」
祈るとは、悲しみを超えて、
魂の自由を“祝福”する行為なのです。
亡くなった人を“かわいそう”と思うより、
「ありがとう」「また会おうね」「光の中で幸せに」
──そう心で語りかけることが、最も優しい供養なのです。
■まとめ
「かわいそう」という思いは、愛情の裏返しです。
しかし本当にその人を想うなら、
“この世の尺度”ではなく“魂の視点”で見てあげたい。
御冥福を祈るとは、
悲しみを超えて、相手の魂を信頼すること。
この世に残された私たちは、
その光を胸に、今日を生きることが何よりの供養になるのです。




